ドクターヴィンのページ


ドクターヴィン 一家では
お母さん(前列中央)も産婦人科医で活躍した

ドクターヴィンと出会ったのは 1996年京大会館でのベトナム医療チャリティーの日だった。
予想を超える盛会で、高揚した ベトナム・アメリカからのパネラー達と 賑やかに観光・夕食を済ませ、宿舎にもなっていた会館に戻ると、何時間も その玄関で待っている小柄な民族衣装の青年と目が合った。
待った時間を思わせない、満面の笑みが忘れられない。
その後 彼とは、当会のベトナム人研修医招請の時、彼が様々な悩みをかかえて私達を訪ねてきた時、帰国するまでの数年間、行き来した。
帰国して、結婚したり、長男を見せてくれたり、我々の訪越の度に交流は続いた。

病院を作ったとの報告も受けたが、訪問する機会はしばらく訪れず、開院から何年かしてやっと訪問した。
そこで彼が私に見せたのは、まだ彼が日本で苦しい留学生活を送っていた頃、我々がプレゼントした ポータブル心エコー機と そこに貼られた 我々のシンボルマークだった。
立派に院長として貫禄もついたドクターヴィンは 色あせた“
Doctor MAYA”のマークを指差して、
「これをなでながら、今日まで頑張ってきました。」と ポツリと語った。
今回贈った患者用ベッドは いまごろ瀕死の患者達を しっかり支えているという事を想像するだけで、小さな幸せを感じるー。


1995年、何度目かのダナン訪問の時いつもの様に、郊外の人道医療センターでは入り切れない患者さん達が、南国の炎天下で既に長蛇の列を作っていた。
ストリートチルドレンも大勢群がり 患者さん達の向こうで 紅い小さなベトナム紙幣を期待の目で待っている。子供達一人一人に声かけする暇もない。一切の医療機器どころか、電気もない診療所では全身をくまなく診察する必要がある。

頭痛、腰痛、呼吸困難を訴えてきたこの患者は、見るからに低栄養で 両足を診察すべくズボンを上げると、片足に義足がはめられていた。今でも、夜間 雷には飛び起きると言う。ベトナム戦後 二十年目の秋。


2000

ダナン市ホアマイ孤児院の子供たちは、訪ねる度に大きくなり、
知的好奇心と笑顔が輝いている。

現地通訳ボランティアの若手医師達(左端二名)も、現地活動の中ではこの時間を一番楽しみにしている。